- 第23回大会を開催して(大会長 渡辺 俊之)
- 第23回大会に参加して(土岐 篤史)
- 第23回大会印象記(松嶋 秀明)
- 日本家族研究・家族療法学会 第24回 京都大会(概要)
- 紹介!「ナラティヴ研究会」(野村 直樹)
- 編集後記
第23回大会を開催して
大会長 渡辺 俊之
物語のはじまり
2004年春、家族療法研究誌の座談会の後、私は後藤雅博先生と遊佐安一郎先生と一緒に居酒屋に入った。後藤先生は「先生も新しい大学に移られたし、学会を引き受けられないかなあ」と真顔で言ってきた。はたして後藤先生の酔いに任せた話であったのか巧妙な戦略だったのかは、今となってはわからない。酩酊気分の私は「地方無名新設大学にとっては大変に光栄な話」とノーテンキに万歳したのであった。
酒成分により私は大海の如く大きな気分。狩野力八郎大会長の事務局における苦悩の記憶など、どこかにすっ飛んでしまい「前向きに考えますよ!ははあ」と言って帰路についた。
しかし翌朝目が覚めると、私の現実検討能力が戻り暗雲たる気持ちになってきた。「事務局やる人がいるのか」「だいたい群馬なんぞに人が来るのか」「学長の許可を得てないぞ」等々・・。私の気分はとたんに落ちてきたのだ。
さっそく楢林先生と後藤先生に丁重に「お断り」のメイルを出した。それで終わればよかった。しかし、またまたどんでん返し。私の心の中に「やりたい気持ち」が残っていたのであろう。その数週間後に学長との酒の席、再び酒成分の勢いあまって、「・・学会をやるのは無理ですよね」と控えめに話を切り出すと、学長の瞳は輝きを見せ始め「ぜひ、学会をもってきてほしい」と握手、私は尻を叩かれてしまった。酔いに任せた撤回の撤回・・。結局、私は「やっぱりやります」と、また楢林会長に撤回メイルを出したのである。まったく主体性のない物語の始まりだった。
孤軍奮闘とコラボレーション
「どうせやるなら、好きなようにやろう」と私の開き直りが機能しはじめた。私はさっそくスーザン・マクダニエルに連絡した。彼女には「いつか日本に呼びますからね」と言ってあった。
私は、正直なところ参加者が減ると考えていたので、まさに手作り。私は学会ホームページを自分で作ったりして、セコセコと準備をしていた。その頃はまだ余裕であった。演題募集要項の発送、参加募集要項の発送は学生アルバイトに頼んだりして、手作りの割には比較的順調にいっていた。3月までは「なーんだ、これなら大丈夫じゃないか・・」と高をくくっていた。しかし3月には下坂幸三先生が急逝、大会としての対応が必要になった。そして4月。参加申し込みが以外に多く、処理が追いつかなくなってきた。仕事量はどんどん増えていき、さすがに私は焦り始めた。持病の腰痛も出始めた。当日の人員配置などが、頭に浮かばない。対応すべきタスクが多すぎたのである。私は孤軍奮闘していた。コラボレーションを掲げている学会のわりに、準備のコラボレーションが下手であった。そんな、私を見かねて、事務局、学科の若い助手達、ケンクリニックの人たちが主体的にコラボレーションし始めた。コラボレーションが私に紡ぎ出したことは「内省と反省」である。どうやら私は「一人で抱えるか」「丸投げするか」という性格のようで、人を使うのが本当に下手であった。大勢の人が、あたふたしている私を担ぎ、後押ししてくれるようになった。こうしてドタバタしながらも準備は整い、学会開催の日はやってきた。
6月8日 プレコングレス
初日、大勢の人がやってきた。バスが到着すると一度に参加者が降りてくる。受付の前には人が並び、「振り込んだ、振り込まない」で参加者と受付係りとのやりとり。こうした人の動きが読めなかった。ワークは始まったが、まだ受付で待っている人が居る。15分くらい遅れた参加者もいた。受付係と溝口副会長からは「これでいいの?」という視線。ペコペコと頭を下げながら、右往左往していた。こんな状況で失念が発覚。3月に急逝した下坂先生のご子息が追悼コーナーを見にいらっしゃるというのだ。大会二日目と三日目と予定していたので、追悼コーナーをこの日は全く用意していなかった。事務局長からメトロポリタンホテルに連絡、コーナーのセットを急遽運んでもらい、急ごしらえで追悼コーナーを作った。楢林会長と私で接待して事なきを得た。
ワークが始まると、どの部屋も熱気に満ちていた。私は胸をなでおろした。どうにか、参加者は部屋に収まりワークは進んでいた。徐々に、ワークの終わりが近づいてくる。「よし、とりあえず一日目は大丈夫だ」と安堵した。そんな時に、緒方明先生が私に耳打ち。「帰りのバスに全員乗れるの?」。「はっ」と思った200人以上が同時に駅に戻る・・2台のバス併せて、せいぜい100人、いそいでタクシーを10台近くよび、学生を配備、振り分けるように手配した。こうして1日目は終えた。
その夜はスーザン・マクダニエル親子の接待である。スーザンは、関西講演と京都観光を終えて高崎に夕方やってきた。京都観光と夜の宴では、「たこ踊りのようなものを見た」とのこと。その踊りを踊ったのが吉川悟先生であったことを竹中裕昭先生より後日耳にした。しかし高崎に来たスーザン、どうも顔色が冴えない。なにやら焦っている。どうやらホテルのインターネットがダウンしてメイルが使えないらしい。“make me nervous!”焦った私は遊佐先生に通訳を依頼。遊佐先生の配慮で、翌朝、遊佐先生のホテルのインターネットを使えることになり私は助けられた。近くの居酒屋でスーザン親子と学会メンバーと宴を持った。しかし私の頭の中は、スーザンのインターネット問題が占拠していた。
6月9日 大会1日目
大会は始まった。一般演題では「フロッピーディスク」への対応が不十分のため、それをUSBに移し替える作業が必要になった。しかし、その作業が間に合わず、加来先生だけスライドなしでプレゼンさせてしまった(すみませんでした加来先生!)。
午前11時、スーザンは、「トシの講演にまでは戻るからね」とホテルにメイルチェックしに行く。スーザンは律儀にも私の講演5分前に戻ってきてくれた。
準備のドタバタに追われていたので逆に気分転換の如く、自分の大会長講演には集中できた。予想以上に人が入っていたので緊張するかと思ったが、次に控えている特別講演とシンポジウムで頭はいっぱいであった。
スーザンの講演。これには感動した。スーザンの講演の中の「Generosity」という言葉が印象に残った。「寛大な優しさ」である。私は多くの人の寛大な優しさに支えられていると思いながら「そうだ、そうだ」と聞いていた。ビデオもよかった。なんで、あんなカッコ良く感動的に作れるのだろうと思った。参加者の多くも同じことを感じたであろう。そして、楢林会長から高崎名物「ダルマ」の進呈、スーザンは笑顔で受け取っていた。
いよいよシンポジウム。ところが、ここでも大失態。シンポジストの名前が変更されていない。事務局と對馬節子先生との連絡の行き違いで、シンポジストの名前を福山和女先生のままにしておいたのである。福山先生は検査入院のため大会をお休みし、對馬先生に代役をお願いしていたのである。ここは謝るしかない・・司会の私は詫びを入れた。
ま、何はともあれ、シンポジウムは終了。スーザンのコメントも意義深かった。
懇親会も、盛況であり。料理が足りなくなるくらいであった。熱気、熱気、熱気で満ちあふれていた。
6月10日 大会2日目
高崎健康福祉大学は、この日も人々で溢れた。公開シンポジウム事例提供者の高橋規子先生から声がかかる。「渡辺先生・・・私、USBを忘れてきてしまったの」。「え、ええ??」と私。高橋先生は、ご自分のスライド資料を忘れてしまったようである。私も、講演企画や事務局など数多く体験していたが、自分の発表スライドを忘れるというのは始めてのこと。私は、私のパソコンを貸してスライド原稿を作ってもらうことにした。ま・・この失策行為が、公開スーパービジョンでのコメントとリフレクションにつながったのだから不思議なものである。
午前中はどの部屋も満員。午後の最終まで、各部屋では熱気ある論議が行われていた。スーザンは、私の大学を「Nice University!」と言ってくれた。もちろんリップサービスだろうけど・・。スーザンは自主シンポに参加してコメントするなど大活躍であった。スーザンは、私の著書の写真をロチェスター大学に飾るから、拡大コピーが欲しいと言った。私は感動し「祖父母が天国で喜びます」と言うと、微笑んでくれた。私の部屋で一緒に写真をとったりして、昼には千葉千恵美事務局長の運転で娘のハンナさんと一緒に伊香保に向かった。
昼頃より、ついに私の持病の腰痛がひどくなってきた。ストレスが高まると私の腰痛が悪化する。総会の時はかなりの激痛。私は一刻も早く伊香保温泉にいって養生したい気分であった。
そして午後5時。学会は終わった。
事故もなく、大きなトラブルもないことにホットした。学会の後片付けをスタッフに託し、私はサンヂエゴから来た若林秀樹先生と、岐阜病院の鈴木美砂子先生を乗せて伊香保温泉ホテル木暮に向かった。温泉で体を休め、宴ではくつろいだ。すっかり気分はリラックスしていた。
宴の後に部屋に戻りビールを飲みながら若林先生を相手に「寝言のような昔話」をしゃべっていた。その晩は本当にグッスリと寝入った。泥のように眠ったのは数年ぶりであった。朝起きると私の腰痛は治っていた。スーザン親子も、公共の女湯も体験、自室の露天風呂も堪能、「Wonderful!」を繰り返していた。翌日、私は彼女を成田まで送り、最後はハグして別れた。
私の長い3日間が終わった。
第23回高崎大会が私に紡ぎ出したもの
大会が終わり1ヶ月たった。大学の周りには、田植えが終った水田が広がる。夜こうして大学の自室で原稿を書いていると蛙の鳴き声が聞こえてくる。
第23回高崎大会は、本学の創立以来、大学が一番熱気をおびた時であったと思う。全国から予想以上の参加者と英知が高崎に集まった。スーザン・マクダニエルも強いエナジーを感じたと言って帰っていった。大会後も、奥村先生や上ノ山先生、他の評議員の先生から激励と感謝の言葉をいただいた。参加者からも良かったとメイルをもらった。
今から思うと、なんだか学会開催は夢の中の出来事だったような気もする。高崎駅に立つと、「この駅に全国の人が降りたのだなあ・・」と感傷的になったりもする。
学会が成功して本当によかったと思う。成功の理由は、スタッフと参加者たちのコラボレーションの産物だとおもっている。そしてコラボレーションを支えたのはGenerosityであったのだと思う。私はこの言葉を大切に心に刻んだ。
トラブルになりそうな局面が何度もあった。しかし何かに救われていた。誰かが遠い世界から高崎大会を見守ってくれたような気がする。それは亡き祖父母と、3月に他界した下坂幸三先生だと、私は思っている。
第23回大会に参加して
土岐 篤史
(沖縄県立南部医療センター・こども医療センターこころの診療科)
日本家族研究・家族療法学会第23回大会は、2006年6月8日から10日までの3日間にわたって群馬県高崎市で開催されました。高崎健康福祉大学と高崎駅構内に直結したホテルメトロポリタン高崎の2会場での交互開催でしたが、アクセスや時間進行がよく練られており大会の流れは円滑でした。大会ホームページ上での手続きや抄録受付、発表スライドなどのIT化も随所で進められ、約400名の参加という盛況な大会になったのは、大会長の高崎健康福祉大学・渡辺俊之教授を始めとした大会実行委員スタッフの先生方による素晴らしい協働の仕事によるものだと思います。
本大会のテーマは、「コラボレーションが紡ぎだすもの—さまざまな領域で家族を考える—」でした。これまで発展してきた家族療法の理論や技法が精神療法の場だけに限定されず、医療・保健・福祉・教育といった様々な領域で実践かつ応用されることを願って決定されたとのことです。当事者・家族・多職種スタッフ間の協働は、家族療法が家族支援・家族ケアの分野まで拡張する可能性を生み出します。その具体的実践と言える「介護家族支援」と題された大会長講演は、介護領域における当事者・家族との協働による心理的援助についてでした。介護家族のたどる典型的な心理的過程が提示され、個人・家族・地域の3システムを視野に入れた介護家族カウンセリングによる支援について語られました。介護家族の介護機能を高め、関係者のQOLを高めようとするこの実践は、従来は私的な営みとされていた介護を、より公的なケアの仕事へと導くように思いました。
特別講演はロチェスター大学医学部の臨床心理士であるスーザン・マクダニエル教授による「メディカルファミリーセラピー」でした。身体・心理・社会的モデル発祥の地であるロチェスター大学で実践されるメディカルファミリーセラピーは、家族療法の理論と技法を背景にして、身体障害・慢性疾患をもった当事者と家族の「病いの経験と苦しみ」を扱う統合的アプローチです。マクダニエル教授によると、家族療法は伝統的にさまざまな状況矛盾を解決してきた有能なアプローチであり、病いによる苦しみにおいて希望と関係性を回復するための重要な手立てになるとのことでした。彼女は重要な概念として、(1)インテグレーション(統合)、(2)コラボレーション(協働)、(3)ジェネロシティ(寛容)を挙げていました。(1)は医学理解や情報の高度・詳細化が治療レベルを押し上げる一方で、当事者が自身の疾患を把握することが難しくなっていることに触れ、身体・心理・社会的に整理され個別化された医療情報を共有していくこと、(2)は長期にわたる疾患のケアにおいては個人・家族のもつナラティヴがより深く関係するため、リーダーシップ型の仕事ではなく互いに敬意を払い協働する仕事がより重要になっていくこと、(3)は医療が「人間は病いにかかる存在」であることを考える意義について触れ、自分ならどのようなケアをされたいかということを念頭に置きながら、病いを人生におけるひとつの通過儀礼のように捉え共感していくことなのだそうです。
ビデオ提示された遺伝性非ポリポーシス大腸がんのケースは、遺伝学的情報を含めた最新の知見をどのように当事者・家族と共有し、家族のニーズに合わせてどのように働くかを真剣に考えさせられるものでした。病気やその原因、必要な検査と診断は何かといった基本的な疾患治療の理解を進めるのみではありません。発症していない家族の遺伝子診断の適切な時期はいつか、予防的手術の必要性があるのか、という先進的かつ複雑な問いに対しては、当事者・家族と共に向き合い、その心理的影響やニーズを理解する必要があります。医療臨床の場においては、どの職種であっても専門的知識の咀嚼が絶えず求められることを改めて痛感しました。
大会シンポジウムは「メディカルファミリーセラピーの展開」で、各先生は各職種の立場から医療の領域におけるご自身の家族療法実践を熱く語っていました。それぞれの豊かな臨床経験から滲み出ていたのは、孤立しやすい状態にある家族メンバーに対して特に積極的協力・支援を行うべきだという主張ではなかったでしょうか。
私は小児病院の精神科医であり、今回は発達支援に関する一般演題を行った関係上、子どもと家族支援に関するセッションに続けて参加いたしました。感じたことは、発達障害に関する演題が増えたことと、面接における相互作用だけでなく地域の場の交流を意識した発表が多かったことです。タイトルだけを眺めても「保護者支援」「家族教室」「地域療育」「家族リジリアンス」「子育て支援」という言葉が並び、支援・協力としての家族療法の多様性が十分実感できた時間だったと思います。
臨床心理士資格認定研修も兼ねたプレコングレスのワークショップ、自主シンポジウム、公開スーパービジョンは並行開催であったため全体像はわかりませんが、それぞれ充実した内容だったと聞いております。
「家族教室」、「リジリアンス」に続いての「コラボレーション、メディカルファミリーセラピー」という大会テーマ。家族療法が個人の素晴らしい力量によるセラピーから、その方法論と援助技術を磨きながら各種領域におけるチームの一員として機能していく新たな展開に大きく踏み出している・・・その流れを明確に意識した本大会になったと感じました。多くのことを学ばせていただき感謝しております。
第23回大会印象記
松嶋 秀明
(滋賀県立大学人間文化学部)
6月8日から10日にかけて、高崎健康福祉大学と高崎メトロポリタンホテルを会場として開催された「家族研究・家族療法学会」に参加した。4年前、滋賀で開催された際に参加して以来の参加だ。
この学会はとても面白い。その理由のひとつは、多様な職種が「家族援助」をキーワードに集い、建設的な議論を積み重ねていることである。自分たちの立場に固執して、不毛な対立に陥るようなことはあまりない。今回の大会テーマは「コラボレーションが紡ぎ出すもの:家族支援ネットワーキング」だったが、まさに、この学会自体がコラボレーションを体現したような学会であり、ふさわしいテーマだったと思う。
コラボレーションが紡ぎ出すものという点では、特別講演のスーザン・マクダニエル先生の講演は、メディカルファミリーセラピーの立場からのレクチャーは刺激的だった。“bio-psycho-social”モデルにのっとり、家族療法においても「生物学的」な部分を扱うことの重要性が述べられていた。報告者には、これまでともすると「病気」は生物学的説明のみが「真実」とされ、病気を患っている患者の体験は二の次にとらえられてきたように思われる。その点、マクダニエル先生のご講演は、患者の体験に焦点をあわせるなかで、あくまでもそれを中心として家族や専門家とのコラボレーションを重視していくものであり魅力的に思われた。
さて、この学会が面白いとおもう第2の理由は、毎回、従来にはなかった表現形式を探った、魅力的な企画が用意されていることである。そういう意味で、2日目の自主シンポ「温故知新」は面白かった。このシンポで印象的だったのは、内容もさることながら、その発表形式。発表者が討論内容をまとめて発表するのではなく、事前の討論の模様が逐語化され、その原稿をよむことで再現されるという、「入れ子」構造をもっていたのである。こうすることで頭で知識として知るのではなく、場を共有して、お互いに身をもってわかることができる工夫がなされていたと感じた。家族療法の学習はもちろん、いろいろな場面に応用できそうで、自分でも試してみたくなるようなセッションだった。
3日目の公開スーパービジョンは、どこにするか迷ったすえに高橋規子先生の「『夫の本性は私しか知らない』と主張する女性との混乱したセッションのふりかえり」に参加した。なにより高橋先生のようなセラピストであっても治療のなかで迷ったり、追い込まれたりすることがあるということが分かったし、コメンターの狩野力八郎先生の、そうした体験こそが大事であるといった指摘が印象にのこっている。自分にもたくさんある失敗した経験や、苦しい体験をあらためて考えていくことの意義が確認され、元気をもらえたように思う。当日は、満員の会場で発言しづらかったので、この場を借りて、感想を述べさせていただきました。ありがとうございました。
日本家族研究・家族療法学会 第24回 京都大会(概要)
日 程: | 2007年5月25日(金)26日(土)27日(日) | |
開催場所: | 5月25日 | ワークショップ → 京都駅前の「パルルプラザKYOTO」 |
5月26,27日 | 大会 → 龍谷大学深草学舎3号館など (京都駅八条口からタクシーで1,000円程度) |
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懇親会 → 大学内の食堂 |
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大会長: | 吉川 悟(龍谷大学) | |
メインテーマ: | 家族療法における質的研究の可能性 家族研究と家族療法の臨床研究の接点の方法論のひとつとして、質的研究法がある。本学会における家族研究は、実質的な臨床実践に繋がることが少なく、また臨床研究が家族研究に広がることも少なかったと考える。また、臨床的に考えれば、ナラティヴ・セラピーの導入によって、「家族」そのものに対する関心より、「治療者-患者関係」を変化の契機とする流れに移行している。しかし、現実の家族臨床の世界では、「家族病理」や「母子関係」に対する注目が強く残っており、その落差は社会的問題とすべきほどである。 本学会での今後の家族療法の発展を考えた場合、家族に対する偏った現実をどのように変えることができそうなのか。その切り口として、昔からの家族研究・第一世代の家族療法・最近のナラティヴの全てを結びつけるものとして、新たな家族研究の切り口である質的研究を導入し、それが今後の家族臨床の可能性をどのように広げられるのかを探る契機としたい。 |
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大会予定: | プレ・ワークショップ/大会長講演/大会教育講演/大会シンポジウム 一般演題(公募)/自主シンポジウム(公募) |
[大会長からのひとこと]
あまりご存じないと思いますが、5月末の京都は、観光シーズンも一段落して、一年を通じて唯一過ごしやすい季節です。学会はさておき、久しぶりに京都観光のつもりでおこし下さい。(というのは、内緒の話。ただ、大学の所在地は京都の中心部から少し離れております。すいません。)
さて、家族が治療的な資産であるというデータは、以前に比べて圧倒的に増えつつあり、それを実証的に示すことがひとつの課題であると考えます。また、臨床的に有益な援助姿勢を見つけ出すためには、患者・家族からのフィードバックを積極的に活用する必要があると思われます。難しく考えるのではなく、素直に患者・家族からのフィードバックを臨床に活用できればいいのですが、それをどのようにすることが可能か、そんな話題を提供できればと思っています。
一方でマジメにお勉強するも良し、一方でぶらぶら京都観光も良し。そんなお気軽で、楽しくて、マジメな大会にできるようにしたいと考えております。みなさまのご協力を心よりお願いする次第です。なお、大会ワークと大会本会の会場が移動しますので、お気をつけ下さい。それでは来年、京都でお会いできますように・・・・。
紹介!「ナラティヴ研究会」
野村 直樹
(名古屋市立大学)
はじめての人からの電話だった。
「わたし、看護学部の教員の勝又と申しますが、野村さんですか?」
「はい、そうですが・・・。」
「わたし、ここで社会学をやっていますが、先日、生協の本屋で『ナラティヴセラピー』という本があるんだなと思って見ていたら、訳者の一人の野村さんは、うちの大学にいるとあったので驚いて、それならせっかくだから――こういう考え方って看護で重要になってくると思うんです――それでナラティヴセラピーの研究会を始めたらどうかと考えて、それで来るだけでも来てもらえないですか。」
この内線電話の主は、勝又正直氏だった。氏はウェーバーを専門とする社会学者だが、名古屋市立大学では看護の学生向けに看護理論を教えている。また彼は看護の教科書も何冊か書いていて、それらはわかりやすくてよく売れている。この勝又さんに招かれる形で、わたしは月一回の割合で勉強会を始めた。看護、医療、福祉、社会学、教育学の人たちとの学際を視野に入れた会だった。2000年11月24日のことだ、こうしてナラティヴ研究会は発足した。(初めは、ナラティヴセラピー研究会と呼んだ。)
以来、毎年暑い8月をのぞいて、月1回金曜日の晩、細々とだが地道に勉強会を続けている。場所は同大学の看護学部棟である。ここは地下鉄桜山駅を降りて0分という立地で、夜おそく帰る人にも便利な場所といえる。
研究会を当初盛り上げてくれた人のひとりが、当時名古屋大学の保健学科の中木高夫さんだ(現在、日赤看護大学教授)。彼のところから大勢の大学院生や同僚、また彼の指導した卒業生らも参加した。7時をすぎた頃到着したかれらがどさどさと部屋になだれ込んでくる。うれしい瞬間だった。会のことを聞きつけて近隣の大学からもぼつぼつ人が来るようになった。
研究会が数年過ぎた頃のこと。
「なーんだ、全部ここに書いてあったんですね。今読み返してみると、なんてわかりやすいんでしょう。」
私たちが最初に皆で読んだのは『ナラティヴ・セラピー―社会構成主義の実践』(金剛出版)だった。毎月1章進むだけだったが、これが意外や難航だった。理解して浸透するのに時間を要した。これまでの思考の癖というか、皆の意識は元あったほうにすぐ戻ってしまう。
初めの頃はそういうわけだから、
「そんな風にしちゃっていいんですか。無責任じゃありません?」
「専門家としてこちらが信じていることは、どこへ行っちゃうんですか。」
「患者さんはけっきょく分かってないんですから!」
というような声がよく聞かれた。
それから私たちが『ナラティヴ・セラピーの実践』(金剛出版)を読み、『ポスト・モダンの条件』(風雲社)、『精霊と結婚した男』(紀伊國屋書店)、『病いの語り』(誠信書房)、『物語としての家族』(金剛出版)、『会話・言語・そして可能性』(金剛出版)、『セラピストの物語/物語のセラピスト』(日本評論社)と読み進んだ頃のことである。「なーんだ、全部ここに書いてあったんですね。今読み返してみると、なんてわかりやすいんでしょう」と会の誰かが、最初に読んだ本をさして言ったのは。
ここに出入りした人の数は相当になる。しかし、転勤する人、家族ができて名古屋を離れる人、その他の理由で来られなくなる人、さまざまだ。新たに前触れもなくひょっこり訪れてくる人もまたある。冬の季節、また冷たく静まり返った夜の建物の中へ、一人あとからコツコツ足音とともにやって来る人、「温っかさの宅配便」みたいである。
ある時、30人くらい集まった晩があった。山梨県の山合いの集落、塩山一之瀬という所で僻地医療に、14年携わっている古屋聡医師の実践を、千葉大学博士課程の岡本有子さんが報告してくれた時だった。岡本さんは千葉から、古屋さんは山梨から来てくれた。めったにない大盛況で、急きょ大きな部屋に移った。このときは、ふだんは地味な会でも、こうやって人が集まれるこの研究会の「潜在能力」みたいなものを感じた。年に一度、田舎の祭りに都会へ出た若者が帰省して加わるように、この研究会もそんな「いなか」を形成しはじめたのかもしれない(難しい言葉で言えば、ナラティヴ・コミュニティとでも?)。
研究会では、時には本を読み、時には誰かの学会発表のリハーサルをし、時には投稿前の原稿を皆で吟味してきた。また、調査報告を聞いたり、ワークショップ形式での参加型セッションもあった。ここ何回かは、ベイトソンの『精神の生態学』(新思索社)を順不同で読んでいる。ナラティヴの理論が、ベイトソンを読むことで根底のところでカチッと噛み合い、磐石なものになっていく気がする。
この研究会のメンバーは、なぜか私と勝又さんを除いて、あとはどんどん進化していく。新たな部署の開設のため四国や沖縄へ行く人、転職する人、昇進してどこかへ行く人、博士課程に進む人、結婚する人、子どもが産まれた人、病気が治って再び参加する人、いろいろである。一、二度訪れた人にも、遠くへ行った人にも、研究会の毎月の案内は届くようにしてある。どうやらこの会に来ると、人は進化の速度を上げるようだ。前に進んでしまう。 今は、遠隔地に転勤した二人の精神科医、土岐篤史さん、市橋香代さんも気さくで楽しいメンバーである。土岐さんは、重度の心身障害者の施設でのナラティヴ・ワークショップ「アズイフ」をスタッフとともにやってくれた。市橋さんは、レギュラーとして参加し、大規模精神病院での入院患者への実践のようすや「外在化」について教えてくれた。
研究会の事務局は、最初の数年同大学看護学部の門間晶子さんに、現在は愛知県立看護大学の原沢優子さんにお願いしてある。研究会にはまた共同執筆の「ナラティヴ・セラピーの周辺」という書評をもとにした論考がある。ご希望の方は、複写になるかもしれませんが、差し上げます。月例の案内が欲しい方は、アクセスしていただければと思う。アドレスは以下のとおり。
原沢 優子(愛知県立看護大学)
dumal@aichi-nurs.ac.jp
野村 直樹(名古屋市立大学)
nomura@hum.nagoya-cu.ac.jp
編集後記
今号より、遂に紙面からホームページ上へ媒体が変更になりました。会員以外の方にもお読み頂ける内容ということで、すこしカラーが変わったかもしれません。すこしずつ、写真なども増やしていければと思っています。乞ご期待(Y.K.)